ー 壬生町の偉人 ー
鳥居忠英(とりい ただてる)(1665~1716)
信州高遠(しんしゅうたかとお)(現在の長野県伊那市)に生まれましたが、のちに幕府に才能が認められ、近江(おうみ)(現在の滋賀県甲賀市)の水口(みなくち)城主となりました。さらに幕府で若年寄(わかどしより)という要職につくようになりました。
その後、1712年に忠英は壬生城主となり、藩領内の殖産興業として「干瓢(かんぴょう)」を広め、また藩校のもとになる「学問所」を開くなど、近代教育の礎(いしずえ)を築きました。
斎藤玄昌(さいとう げんしょう)(1809~1872)
壬生藩の医師の子として、羽刈村(はかりむら)(現在の足利市)に生まれました。江戸で西洋の学問である蘭学(らんがく)を学び、1834年に壬生藩鳥居家の医師となって活躍しました。
玄昌は西洋医学の正確さを知り、1840年に壬生上河岸(かみがし)で人体解剖(じんたいかいぼう)を行い、『解体正図(かいたいせいず)』という記録を残しました。
また、1850年には当時大変おそろしい病気であったほうそう(天然痘(てんねんとう))の予防接種を下野国(栃木県)で最初に行いました。
斎藤留蔵(さいとう とめぞう)(1844~1917)
壬生藩の藩士の子として生まれました。1855年に砲術と西洋の学問である蘭学(らんがく)を学びました。1860年に幕府の軍艦(ぐんかん)咸臨丸(かんりんまる)でアメリカに渡る時は、16歳で鼓手(こしゅ)(太鼓を打つ人)として最年少の乗組員となりました。帰国後は、明治政府の命を受けて、1871年に岩倉使節団(いわくらしせつだん)の同行留学生となりアメリカで砲術を学びました。1875年には農業を学びにアメリカに渡り、日本で初めての牧羊場(ぼくようじょう)を試みました。
太田信義(おおた のぶよし)(1835~1897)
壬生藩校で学び、藩校の校長である太田泰蔵(おおたたいぞう)の養子に入りました。明治維新後は明治政府に仕えましたが、その後、商業の道に進み、日本橋に店を構えて出版業を始めました。これがきっかけで、持病である胃病が悪化しましたが、大阪出張中で飲んだ薬で完治しました。信義は、この薬の作り方を教わり、胃腸薬として製造をしました。これが現在の「太田胃散(おおたいさん)」として大好評となりました。